八月十五日に寄せて

今年も八月十五日がやってきました。八十年前の八月十五日も暑い日差しが照り付ける、そんな中だったのではないでしょうか。思い起こせば、二十年近く前に靖国神社前で反日反靖国を叫ぶ不逞の輩(反天連)がいることを知りました。そこで、桜井ほか十名も集まらない中で、彼らに対して抗議の声を上げたのが始まりだったのです。その声は徐々に大きく広がっていき、ついには九段下交差点を埋め尽くす数千人の人を集めて、靖国神社を守ろうと多くの人たちが賛同の声をあげてくれたのです。

その後、桜井自身、身体を壊して出陣もママならず、抗議活動は他の方たちへ引き継がれていきました。この時に桜井が皆さんに伝えたのは…「出来得るなら八月十五日は静かに過去の大戦で亡くなった方たちを慰霊するのが当たり前。しかし、その安寧なることを妨げ、多くの人たちの祈りを捧げる場所である靖国を潰そうとする輩が、跳梁跋扈するのであれば、これに断固として立ち向かうのが、日本のために亡くなった多くの英霊たちの子孫である私たちの務めではないか?」というものでした。

反天連は今日もまた、しつこく反日反靖国を叫ぶのでしょう。この二十年、彼らの様子を見てきたものとして、明らかに参加者が高齢化しており、組織として崩壊する寸前ではないか?と思わせるものでした。がしかし、何時の世もこうした愚かな思想に取り憑かれた過去の亡霊というのは湧いて出てくるもので、最近では若者が反天連の活動に参加して、活動の盛り返しを図っているようです。もし皆さんが靖国への参拝の途中で、彼らを見かけた際には、抗議の声を上げて欲しいと願います。

一部の政治家連中は、徒党を組んで「みんなで靖国神社に参拝に行こう」などとやっています。こうした幼稚な考えを見る付け、その情けなさに頭を抱える次第です。行かないよりは行った方がマシと思う人もいるかも知れません。しかし、個人として自分の信念を持って参拝するのではなく、みんなが行くから自分も一緒に行って参拝しました、と保守アピールの道具として靖国参拝を使っているのが明らかなのは、どうなのでしょうか?私には愚かの極みにしか見えないのです。

靖国参拝は心の問題です。誰からの強制を受ける訳でもなく、自分が参拝したいからするだけの話です。その心の問題に土足で踏み入ってくるから、支那や朝鮮そして我が国の反日パヨクとは絶対に共存は出来ないのです。大戦中に「戦で亡くなったら靖国神社(護国神社)で祀る」と約束したのは、当時の政府です。であるなら、政府は外国がどう言おうと約束を果たすべきなのです。中曽根康弘が支那の介入で靖国参拝を取りやめて以降、歴代総理大臣は靖国神社への公式参拝をしていません。

小泉純一郎と安倍晋三が、いわゆる保守派と呼ばれる連中を宥めすかすために、昇殿参拝ではなく通常参拝として参拝したことはありますが、あれが心からの参拝だと信じる日本人はいないでしょう。総理大臣が約束を守らなければ、英霊たちはいったい何のために先の大戦で命を戦場に散らしていったのか。悲しいくらいに、今の日本は乱れ切っていると言わざるを得ないのです。「心の問題は政治とは別」と毅然とした態度を日本の政治家には取ってもらいたいものです。

それぞれの想いを込めて、八月十五日が今年もやってきます。皆さんが八月十五日をどう迎えるのか。それぞれの考え、それぞれの行動次第でしょうが、それでも桜井は20年にわたって願い続けています。自分の国を大切に思うこと、それは誰からも咎められるものでは無く、その国に生まれた人間としての当然の権利なのです。だからこそ、その安寧なる日本をかき乱し、敵性外国人に平然と日本の国益を売り払う、売国奴を心の底から軽蔑し敵対するのです。この声に一人でも多くの人が続いてくれますように、と。