【明治小考】 御一新は必要だったのか?

歴史に「もしも」はない、というのは当然なのでしょう。しかし、それでも明治の御一新(維新)というものについて「もしも」を考えずにはいられないのです。もしも御一新がなければ? もしも徳川幕府が続いていれば? 考えても意味のないことであるとは思います。ただ、現在の日本の惨状をみるにつけ、その「もしも」に縋りたくなる気持ちもご理解頂けるのではないでしょうか。私たちは一体どのような歴史を辿り、そして何をしてきたのか?それを知らずに明治を語ること、さらにその後の時代について語ることなど絶対に出来ないのです。

明治の御一新は慶応三年十二月九日(1868年1月3日)の王政復古の大号令によって成ったとされています。今からおよそ150年前の出来事です。薩摩・長州を中心とする下級武士階級による事実上のクーデターであり、その後の歴史を見れば、当時の上役だった島津や毛利と言った薩摩・長州が推戴すべき主君らが脇へと追いやられ、実権が下級武士たちに握られていく有様を見ればはっきりと分かるものです。そして、昭和二十年(1945年)の大東亜戦争敗北によって、彼らが作った大日本帝国という名前だけは御大層な国家は崩壊しました。

百年にも満たない国家に意味があったとは思えないのですが、その後の日本は米国の属国として存在が許され、昭和二十七年(1952年)のサンフランシスコ平和条約締結とともに、大日本帝国から日本国として国家の様相を変えて現在に至ります。本来であれば、明治政府を打ち立てた薩摩・長州の責任が問われて当然なのですが、なぜか長州閥と呼ばれる国家を崩壊に導いた勢力が未だに力を持っており、その長州閥の流れを汲んでいる自民党(特に米国中央情報局絡みで政界で力を持った岸一族ら)を無知蒙昧な民衆が支持する有様です。

明治政府以降、彼らは歴史の改ざんを繰り返し、歴史教育の中で徳川幕府のありもしない「士農工商」という身分制度をでっち上げ、それを開放し「四民平等」を成し遂げた明治政府、という偽功績を吹聴していきました。歴史は勝者によって書かれ紡がれるものであり、徳川幕府とて豊臣政権を打ち倒し改ざんしたではないか、との声があることは百も承知です。しかし、それでも近代に入って「易姓革命」の如き支那の悪しき伝統を我が国に持ち込み、日本においてぬぐい切れない汚点を作り上げたことも確かなのです。ほんの150年前でさえこの調子なのです。

たった七十数年で国家を潰した薩長の私怨で始まった明治の御一新の犠牲になった多くの人たち。会津戊辰戦争で、会津藩が恭順を願い出ていたにも関わらず、蛤御門の変や新選組などの恨みで絶対にそれを許さず、会津を灰燼に帰することになりました。さらにこの戊辰戦争で亡くなった多くの会津兵たちの躯を野ざらしにし、見せしめにした政府軍のやり方を是認できるものなどいないと信じたいところです。薩長土肥の御一新の罪は未だ消えておらず、特に長州(山口県)が「維新の故郷」などと称して売り込みを展開しているなど言語道断の所業といえるでしょう。

その維新(御一新)のおかげで、日本がどのような結末を辿るはめになったかを考えれば、何をいわんかといったところでしょうか。とまれ、現在の米国の属国たる日本国において、若者は希望を失い、熟年者は職を失い、老齢者は火葬場を失う有様です。自民党政権の失政により90年代以降、日本が経済的に下り坂を転げ落ち、落ちた穴から這い上がろうと必死にもがく姿、ボロボロになっていく姿を見るにつけ、「明治の御一新」についてもしもを考えずにはいられないのです。もしも御一新が無ければ? もしも徳川幕府が続いていたなら? と夢想するのです。